上野公園のことをなぜなぜと思ったのはこのところ美術鑑賞で数回訪れた行き先の東京国立博物館が、元は寛永寺の敷地であったことを知ったことにありました。

美術館に訪れる時はほとんどそちらに直行ですので、公園内にある東照宮やその他の寺。顔だけの大仏や国立博物館の付近にある門について、考えることがありませんでした。

今回、茶の湯展へ行って、このあたりが文化人で溢れていたことや史跡がたくさんあることに興味が湧きました。

現在の上野公園のほぼ全域が昔は寛永寺の境内であったのですね。
寛永寺にある徳川秀忠らの霊廟に将軍が参詣するための参道(松坂屋上野店あたりから上野公園入口あたり)で、防火の意味で道幅を広げていたため、『広小路』称していたのだそうです。

上野公園入口付近には「御橋」または「三橋」と称する橋があって寺の正面入口となっており、その先に総門にあたる「黒門」があり、上野公園内中央を通り、大噴水、東京国立博物館方面へ向かう道がかつての参道であり、文殊楼、その先に法華堂と常行堂、多宝塔、輪蔵、根本中堂、本坊などがあったそうです。

その周囲には清水観音堂(現存)、五重塔(現存)、東照宮(現存)、不忍池の中島に建つ弁天堂(現存するが20世紀の再建)などが建ち、また、36か院にのぼる子院があったといいます。

江戸に天台宗の拠点となる大寺院を造営したいと考えていた天台宗の僧・天海は、1622年、秀忠に土地を与えられ、江戸と寛永寺との関係を、京都と比叡山の関係になぞらえて構想していたそうです。

すなわち、根本中堂、法華堂、常行堂などは比叡山延暦寺にも同名の建物があり、清水観音堂は京都の清水寺になぞらえたもの、不忍池と中島の弁天堂は、琵琶湖とそこに浮かぶ竹生島宝厳寺の弁才天にならったものであるといいます。

写真の根本中堂は、明治十二年に川越喜多院の本地堂を山内子院の大慈院(現寛永寺)の地に移築し再建されたもので、御本尊は、伝教大師最澄上人の御自刻とされる薬師瑠璃光如来像(国指定重要文化財)を秘仏としてお祀りしているそうです。

食事を一緒にした友人に、今日は寛永寺の近くのパティスリーに寄って行く話をし、その際、確か寛永寺には乾山のお墓があったように思うと言ったけれど間違いはないかを確かめに行きました。

何度か行っても記憶は薄れるものですね。
実際、少し記憶違いでした。

確かにこんな風に石碑は立っていますが、こちらにあるものは復元建立されたものだそうです。
また、ここでわかったことで驚いたのは、乾山が入谷に窯を持っていたこと。尾形乾山は、琳派の創始者である画家・尾形光琳の弟ですから、活動は京の都で、とばかり思っていました。

詳しくはこちら

丁度寛永寺に伺った時、特別参拝の最中のようで、根本堂は御朱印のためでもあったようですが、開堂されていました。

以前はこのようなことはなかったと思うのですが、法楽を少しお聞きすることができました。この後この参拝に参加の皆さんは徳川家のお墓を詣るようです。

寛永寺 特別参拝

黒門にあったという阿形の鬼瓦。

根本中堂鬼瓦。

古代蓮のような牡丹?

さすがに寺という風情です。

ご案内所からのぞむ内部も魅力的です。

寛永寺 上野の杜の散策

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