友達が帯広から出てきます。


滞在中、三菱一号館美術館でのエキシビションを観覧したいとのこと。


この展覧会を最後にしばらく休館するそうなので、このお誘い、のることにしました。

三菱一号館美術館に来る時は、二重橋前駅を利用しますが、

本当に気分の良いエリアです。

エシレやロブションなど素敵なテナントが入っていることもあって、約束の11時の時間、すでに人が集っていました。

前回は、シャネル展の時にお邪魔しでしょうか?

開館からもう13年も経つそうですね。


19世紀末に日本の近代化を象徴した三菱一号館は、1894(明治27)年、開国間もない日本政府が招聘した英国人建築家ジョサイア・コンドルによって設され、三菱が東京・丸の内に建設した初めての洋風事務所建築です。

この建物は老朽化のために1968(昭和43)年に解体されましたが、コンドルの原設計に則って2010(平成22)年春、三菱一号館美術館として生まれ変わりました


復元に際しては、階段部の手すりの石材など、保存されていた部材を一部建物内部に再利用したほか、意匠や部材だけではなく、その製造方法や建築技術まで忠実に再現するなどがされています。

さて、今回の展覧会は、

歌川(落合)芳幾(1833-1904)と

月岡(大蘇)芳年(1839-1892)。


幕末を代表する浮世絵師で、

歌川国芳(1797-1861)の門下でともに腕を磨いたライバル同士です。

〈芳年〉 大阪夏御陣 御危難之図


明治7年

〈芳年〉 藤原保昌 月下弄笛図


明治16年

〈芳年〉 徳川治績 年間紀事

五代常憲院殿 綱吉公


明治8年

〈芳年〉 徳川累代像顕


明治8年


綱吉のそばには、やはり犬が描かれています。

〈芳年〉 矢嶋大合戦之図


明治8年


平家が滅んだ檀ノ浦の戦い。

《芳幾》 与八なさけ浮名の横ぐし


1860年


役者の似顔絵を猫など動物を画くのは国芳ゆずりの手法。

《芳幾》 柳光若気競 きん八


明治3年

〈芳年〉 武者无類 源牛若丸 熊坂長範


明治16(1883)年


牛若丸と対峙するのは、弁慶でなく伝説の盗賊。

〈芳年〉 武者无類 主計頭 加藤清正


明治16年


加藤清正が論語を読んでいたある日、ふと目を離した隙に飼っていた猿が、清正の真似をして筆を持ち本を汚してしまった。


清正は叱ることなく「そんなに勉強がしたいのか」と頭を撫でたという話。


肥後の虎と云われた武将の一面。

〈芳年〉 武者无類 弾正忠松永久秀


明治16年


謀反を起こした家臣松永が、織田信長に平蜘蛛茶釜をよこせと要求されたが、


「首と平蜘蛛は渡さぬ」と、

茶釜は叩き割り、城に火をつけて自害したという話。


先日の大河『どうする家康』で取り上げていたので、印象に残りました。

〈芳年〉 武者无類 遠藤武者盛遠


明治16年


絶世の美女袈裟御前に恋い焦がれ、夫殺害を試みるが、寝込みを襲った寝床には、夫を想う袈裟御前がいた。

〈芳年〉 武者无類 相模次郎平将門


明治16年


平将門の最期を描いた作品。

馬上の将門、ナポレオンのよう。

〈芳年〉 武者无類 平忠盛


明治16年


白川院に仕えた清盛の父、忠盛は、怪しいものを切るように命じられるが、近くに寄ってみると、灯籠に油をさす坊主であった。


白川院は、忠盛の冷静さと豪胆さを讃えたという平家物語の話。

〈芳年〉 武者无類 八幡家太郎義家


明治16年


源氏の基盤を築いた義家が、若い頃人妻と密会を重ねていた。

碁盤を置いて、間男をつまづかせようとしたが、これを切りり捨て難なく屋敷に入り込んだ義家に尻尾を巻いて逃げてしまったという話。

〈芳年〉 武者无類 平相国 清盛


明治16年


やはり、こんなお姿だったんでしょうか?

このところの大河の清盛のお姿は、これに近いような気がしています。

《芳幾》 虎の見世物札 


1866年

《芳幾》 猛虎之写真 


1860年


この頃になると、虎も実物が見れたということでしょうか?

南蛮人が一緒に描かれているのは何か意味がありそうです。

《芳幾》 東京日々新聞 


明治7年


毎日新聞の前身である日々新聞に発起人として携わっていた頃の作品。

《芳幾》 東京日々新聞 開版予告


1874(明治7)年


何故かエンジェル。

〈芳年〉 郵便報知新聞


1875(明治8)年


一方、芳年は歴史的主題の浮世絵を開拓していきました。

〈芳年〉 つき百姿 千代能


『月百姿』は、芳年が画業の最後に手掛けた大判錦絵100図の揃物。


1889(明治22)年

〈芳年〉 月百姿 石山月


昨年旅した石山寺は、紫式部が「源氏物語」の構造を練ったという古刹でした。

〈芳年〉 月百姿 雨後の山月 時政


曽我の敵討ちでお馴染みの曽我五郎時政。

父の仇を討つ覚悟を決め、刀を抜き夜空を見上げる美しいシーンである。


芳年は、

「月百姿」の刊行を目前に神経を患い没したそうです。


時は幕末。

明治政府の極端な欧化に反抗した伝統的文化の回帰ともいえると云われています。


芳幾に対して芳年は、浮世絵にこだわり続けていた様子ですが、

どこか劇画タッチ。


もしかしたら、若冲のように、この時代の浮世絵が近い将来ブームになるかもしれません。


版画はこの後、川瀬巴水の名を知らしめた『新版画』という形に変化していきます。


ちなみに初代マッキントッシュのデモ画面は、橋口五葉の新版画です。


川瀬巴水展@SONPO美術館

『重要文化財の秘密』入館チケットで、所蔵作品展、新収蔵、小企画展を拝見します。


少し疲れていても、近代アートが好きなら足早でも鑑賞した方がいい。

そう、わたしは思っています。


今回はまたなんだか、とっても琴線に触れました。


まずは、重要文化財に指定された作品のアーチストの所蔵作品。


こちら、岸田劉生作品です。

『人参図』1926年

そして、

岸田劉生『蕪図』1929年


あの『麗子微笑』の岸田劉生、

実は静物画がお得意なのです。

萬鉄五郎 『太陽の麦畑』1913年


あの、印象的な裸体の絵のように、やっぱりこちらも情熱のようなものを感じます。

藤島武二『匂い』1915年


重文指定の『天平の面影』とは、異なる色づかいですが、こちらも魅力的です。

関根正三『三星』1919年

重文指定作品は『信仰の悲しみ』ですが、こちら『三星』も力強いですよね。


重文受賞作家の作品の展示は、違った一面を観れる素敵な企画展でした。

パウル・クレー、好きなんです。


この作品は、新しく所蔵されて今回初公開。


『黄色の中の思考』1937年


こちら国立東京近代美術館には、パウル・クレー作品、結構充実しています。

『櫛をつけた魔女』1922年

『破壊された村』1920年

『花開く木をめぐる象徴』1925年

遠くからでもこの方の作品はわかります。

そして引き込まれます。


草間彌生『天上よりの告示』1989年

さてさて、今度の企画展は、

「美術館の春まつり」


この企画ありきで、中庭の緋毛氈のお席だったのですね。

このお部屋も素敵なんです。

展示は、春の風景画。

ポスターになった作品。

これは、目で確かめて感動した方がいいです。


船田玉樹(ふなだぎょくじゅ)

『花の夕』1938年


この時代にマゼンタを大胆に使ったモダンアートですね。


好きです。

最後は、小企画

「修復の秘密」を

ビデオを見ながら拝見します。


安井曽太郎『金蓉』1934年


修復とは、「修め(繕って整え)」「復する(もとの状態に戻す)」の言葉通りの技術ですが、


影の仕事となる修復家は、深く思考して作業しています。


敬意を表します。


MOMATコレクション



上野の美術館は行くけれど、こちら、国立近代美術館に足を運ぶ方は、そう多くないのでしょうか?


もちろん、念のためにweb予約して行きましたが、日曜日なのに、それほどの混雑は感じませんでした。


居心地の良い美術館です。

そして、今の時期、桜を愛でるに相応しい皇居が目の前です。


少し歩いて北の丸公園公園から千鳥ヶ淵を歩くのもお薦めです。


それはさておき、

今、近代美術館では、70周年の記念の『重要文化財の秘密展』が開催中です。


何時だったか?山田五郎先生のYouTubeで、黒田清輝は重要文化財に指定された作品は3点あって多すぎる。


と、おっしゃって、チャンネル中で、数々のことを教えてくださっていました。


それは、美術界の時代背景が大きく関わっているのだといいます。


日本画としての色が濃いか?

洋画としての流れを今どういう風に世に出すか?など…とか。


そして、アーチストがどのような立場にいるかもポイントであるようです。


やはりどこの世界も政治的ですね。


興味のある方はこちらから

重要文化財に指定された最初の作品から始まりますが、


足を運ばなければ体感できない大作の展示が続きます。


菱田春草『王昭君』1902年

重要文化財指定 1982年


日本画は、写真NGですが、

鏑木清方の作品は、4点が出展されています。

この作品は何回か見ていますが、非常に印象的です。


観音菩薩と竜。

しかも日本画ではありません。


菩薩を竜頭にのせてしまうのがとても斬新ですが、技術的な評価なのでしょうね。


原田直次郎『騎竜観音』1890年


ちなみに

重要文化財は、1950年に公布された文化財保護法に基づき、日本に所在する建造物、美術工芸品、考古資料などの有形文化財のうち、製作優秀で我が国の文化史上貴重なもの等について文部科学大臣が定めたものです。

そのうち特に優れたものが「国宝」に指定されます。

こちらも東洋的でありながら、洋ですね。


藤島武二『天平の面影』1902年

重要文化財 2003年

大好きな絵です。


本作品は卒業作品として制作され、評価は19人中16番目だったそうですが、


大正の時代にゴッホやマティスの影響を受けて主観的表現を試みた作品として、戦後評価が高まったそうです。


今見ても新しい。


萬鉄五郎『裸体美人』1912年

重要文化財 2000年


まんてつごろうではなく「よろずてつごろう」です。

こういった肉体美を描く画は、神話などだけだった時代だったわけですから、観る側にも刺激的だったと想像します。


初めて視た時、迫力があるな、と感じた作品です。


和田三造『南風』1907年

高村光雲『老猿』1893年

重要文化財指定 1999年


上野の西郷隆盛像で有名な高村光雲ですが、木像、迫力でした。

岸田劉生『道路と土手と塀』1915年

重要文化財指定 1971年


岸田劉生って、教科書に載っていた「麗子像」で、有名な画家ですよね。


風景画もインパクトがありました。


同じく重要文化財に指定されている『麗子微笑』は、4/4からの展示になります。

高橋由一『鮭』1877年

重要文化財指定 1967年


こちらも、誰もがご存知のシャケですよね。


初めてこの作品を観た時は、子ども心に何故シャケなんだろう?って思いましたが、


そこじゃないんですよね。


油絵で最初の重要文化財指定作品です。

油絵は、質感をリアルにし、写真のような効果をもたらします。

青木繁『わだつみのいろこの宮』1907年

重要文化財指定 1969年


この作品は、こちらで観たのかなぁ〜?

ごくごく最近で印象的だったので、写真を撮らせていただきました。


調べてみると、先の『天平の面影』とともに、旧ブリジストン美術館のアーティゾン美術館所蔵でした。

中村彝『ワロシェンコ氏の像』1920年

重要文化財指定 1977年


中村彝さんっていう方は、確か佐伯祐三が住んでいた辺り、下落合にアトリエがあったんじゃなかったかしら?


記念館に行って、この作品がインパクトがあったことを記憶しています。


記念館にあるのは習作で、本物は、こちら国立近代美術館所蔵だったのですね。


今回の多くが、東京国立近代美術館所蔵作品です。

鈴木長吉『十二の鷹』1893年

重要文化財指定 2019年


この手はよくわからないんですけど、近くで観ると、その精密さに驚愕します。


しかも19世紀の作品。


当日の指物師の技術力は、きっと凄いものだったんだと想像します。

朝倉文夫 『墓守』1910年

重要文化財指定 2001年

初代 宮川香山『褐釉蟹貼付台付鉢』1881年


エグ過ぎるこの作品がいかにして重文になったのか?


その秘密は、足を運んで本物に触れて感じるしかありません。


超絶技巧、確かです。

初代宮川香山『黄釉銹絵梅樹図大瓶』1892年


上と同じ作家だとは思えない気品のある作品。


宮川香山は、釉薬を熱心に研究した陶芸家であったそうです。


重要文化財68件のうち51点が集まることは70年に一度?

会期中作品換えがありますが、秘密を知りながら鑑賞するのは、大変勉強になりました。

東京駅、丸の内。

いつ来てもこのドームは素敵な空間です。


その北口から直結のステーションギャラリーは、ちょこちょこ訪問する美術館です。


山田五郎先生の番組を観て、必ず行こうと決めていたので、例のごとく思いつきでやって来ました。


Webサイトで当日券を問題なく入手出来そうなので、たかをくくっておりましたら、


到着すると、ネット予約優先で入場制限もあり、

結局、20分ほど待つことになりました。


マスク緩和になり人々はときめきを求めていますね。


『佐伯祐三展』

訪れる方々の年齢層は、高いような感じがしました。

最初から鳥肌が立ちましたね。


アートのことは知識なく、好きなだけですが、最近ではなかった情熱みたいなものを、


プロローグの一枚目の展示である自画像から感じました。


[立てる自画像] 1925年


この作品は、気に入らなかったのか、顔が消されています。

さらに裏には違う絵が描かれています。


30歳で夭折した佐伯祐三が本格的画業に取り組んだのは、わずか4年であったといいます。


短い画業で残した作品が今回展示してあるのですが、


それは、命を削って自分のスタイルを確立させようとした、凄さの現れのような感じがしました。

第1章

[滞船] 1926年頃


効果的な線の描写が、

パリから帰国して取り組んだ、住居のあった下落合の風景と、滞船から見られます。

第2章

[コルドヌリ(靴屋)] 1925年


パリ留学中、佐伯は文字や看板、建物を題材にスタイルを作っていきます。

[ガス燈と広告] 1927年


線のような人もパリの街並みのポスターも

粗削りですが、魅力的です。

第3章

[煉瓦焼] 1928年


パリから列車で1時間ほどの村で、新しい造形を模索したそうです。


この色使い、構図、

惹かれます。

エピローグ

[郵便配達夫] 1928年


絶筆とも云える作品だそうです。

ゴッホを意識したのは間違いないような気がしますが、


これが、日本人の洋画かと思うほどの熱量を感じます。


「佐伯Love」を感じる学芸員さまのキャプションが魅力的で、

作品に芽生える気持ちがアップします。


特別展『佐伯祐三』4/2まで


シガールでお馴染み、YOKU MOKUさんの美術館があること、

皆さま、ご存知ではないですよね?


甥嫁にGMO美術館にバンクシーを観に行かないか?と誘われて、

デジタルバンクシーは、ちょいといいかな?


ならば私設美術館でどこかあればな、


と、思い出したのが、今日伺いました【YOKU MOKUミュージアム】でした。

青山本店に隣接と思い込んでおりましたが、


場所は、青山学院中東部の近くで、


六本木通りからちょっと入ったところです。


久しぶりに表参道駅から歩いて行きましたが、10分ほどになるでしょうか?


20代の頃にこの近くの事務所にお世話になっていたことがあるので懐かしい場所です。


到着した時、車で良く通り過ぎた三角地帯だったので「あぁ、ここだったんだ」と、時間が止まりました。


こちらのミュージアム、


青山本店、

『ブルー•ブリック•ラウンジ』と同じ、ブルーの煉瓦が意匠されていました。

ヨックモック・コレクションは、ピカソの幅広い芸術活動の中のセラミック、中でもピカソの許可のもと厳重に管理をされて制作された「エディション」と呼ばれる作品を中心に収集された、世界でも有数のコレクションだそうです。

30年以上掛けて収集した作品は、500を超えるコレクションとなっているといいます。


開館は、2020年だそうですが、


第3回目の今回は、

「ピカソのセラミック モダンに触れる」

です。

まずは地下に降り、オリジナル作品を見て行きます。


『ケープで牡牛をはらう』1959年

『静物』1953年

『3尾の鰯』1948年

写真はOK。


こちらは、愛娘のためのお菓子を描いたとされている絵。


YOKU MOKUらしい作品選びですね。


セラミック中心の展覧会ですが、最初に目に飛び込む特別出展作品です。


ピカソの作品にしては珍しい正統派の静物画ですが、とても印象に残りました。

この作品、マネの『草上の昼食』のオマージュらしいです。


マネのこの絵はたくさんのアーチストが題材に選んでいますが、ピカソはベラスケスもですが、先駆けですよね。


絵画もあるんでしょうか?

陶板ではじめて観ました。

第2章のテーマは、

”メタモルフォーゼと遊戯”でしたが、


ピカソの真骨頂とも言えそうな、遊び心満載の変身した作品が見られました。


壺『女性』『鳥』


工房で制作するピカソの姿のビデオがありましたが、陶工が轆轤で形成した花器のような形を、繊細な手でねじる、へこますなどして作りあげるピカソが映し出されていました。


陶工がその異次元の天才の姿をリスペクトを込めて眺めている姿が、印象的でした。

この一連が何作品かあります。


『トランポリンをする3人』

『飛込する人たち』


ピクトグラムとして観ると、


伝わります。魅力的です。

エディション作品『サッカー選手』


マチスの切り紙絵と並ぶと、三次元なのが感じとれます。

『踊り子と楽師たち』1950年
『踊り⼦』1956年


ギリシャ神話をモチーフにした作品でしょうか?

デュオニソス=酒の神。


大きな壺は、赤と黒土の対比も面白いと感じました。

2階へ上がります。


採光がキモチの良い空間でした。


ミロのブロンズ作品。

マチスの素描などもありました。

エディションの作品は壁一面に飾られていました。


その中でのワタシの一番がコチラです。

一階はカフェと図書館があります。


カフェの名前は、ピカソがセラミック活動をしていた場所に因んで、

『カフェ ヴァローレス』


床の煉瓦と、椅子のブルーが素敵な、採光が気持の良い空間で、カフェのみの利用も可能です。

フレンチをいただくとデセールの前にひとつまみサイズのお菓子が出されることがありますが、


その、ミニャルディーズを提供しています。

2階のお化粧室に表示されていたピクトグラム。

1階受付前のロッカー。


ミュージアム全体がコンパクトながらひとつのアートになっています。

ボーダーを着用して行くと、割引があります。v(・ε・v)


YOKU MOKU ミュージアム


日本では、30年ぶりだそうです。


夭折が運命のように、短い生涯に新しさを模索し、独自の絵画を追究し、才能豊かで個性的な画風を確立していったアーチストであったそうです。


生涯を閉じたのは、ハプスブルク帝国が滅亡した1918年でした。

シーレ弱冠16才の時に入学したウィーン美術アカデミーは、


あのヒトラーが、3度挑戦して入学できなかった美術の名門だそうです。


ヒトラーが芸術好きだということは聞いていましたが、そう言う経歴があることは知りませんでした。


美術品を略奪したり、自身が好みである古典派は擁護し、革新派を排除したことにも独裁的手腕を発揮していました。


ナチスに略奪されたクリムトの絵画を政府から返還させるという

実話映画(『黄金のアデーレ』)で

「なんと理不尽なこと」だと思っていました。


そのウィーン分離派の代表であった金の魔術師クリムトは、シーレの才能をありすぎると評価し懇意にし、シーレも師として慕っていたといいます。


どれだけの才能だったのか?


上の2枚の作品を見れば、その魅力は歴然ですね。


好みです。ささります。

学年最年少の特別扱いで、オーストリアにおいて最も権威のある美大『ウィーン美術アカデミー』へ入学したわけですが、


古典的、伝統的な美術から離脱し、

ウィーン分離派を初めとして象徴派、表現主義に影響を受けつつも、独自の絵画を追求した結果、

21歳、この作品です。

『吹き荒れる風の中の秋の木(冬の木)』


これは、現代芸術の域ではありませんか?


100年前の作品なのです。


しかも、インパクトあります。

撮影okは、この一連のみでした。


『モルダウ河畔のクルマウ』


色彩も構図も独創性があり魅力的です。

今回、美術史を強く意識したのですが、


グスタフ・クリムトらのウィーン分離派は、何から分離したかというと、先のウィーン美術アカデミーです。


当時、力のあった組織を離れることは革新的だったのだと想像します。


そういった歴史的背景は知れば知るほど興味深いものですが、


意図的に捻じ曲げられたポーズの多数の人物画はとても衝撃を受けました。

巡回はないそうです。

上野はご足労でも、観とかないと勿体ない気がします。


2023 エゴン•シーレ 主な作品

今回は、エゴン•シーレのコレクションが世界最大と言われるウィーンのレオポルト美術館からのシーレを中心とした展覧会ですが、他に、ウィーンの世紀末の画家たちの作品の展示があります。


やはり若くして亡くなった、リヒャルト•ゲルストルの自画像は、必見です。

最近、本当に情報に疎いです。

欲しい情報を取りに行くばかりだからのような気がしています。


アクセスポイントの下北沢で、この『マリークワント展』のポスターを昨日見かけ、断然興味があったので、行って来ました。


この時期をリアルタイムで知っているわけではないのですが、

シャネルと並ぶ位、当時のファッションに影響を与えたと伝えられている方です。


わたしは、PARCOやLOFT、西武百貨店の勢いがあった頃、スタイリストをしていていました。

マリークワントはもうコスメティックの世界がメインになっていた頃だったでしょうか?


他では扱わない奇抜な色があって、ポップな印象であったことを今でも覚えています。

今回、マリークワントって、フレディ・マーキュリーの永遠の恋人が、勤めていたところじゃあなかったかしら?

との思いを寄せながら、展覧会を観ていました。


だって、音楽シーンを背景にすると、その時代にタイムスリップする感覚になるんですもの。


当時、ビートルズ、ローリングストーンズ、そしてクイーンと、イギリスはカルチャーの原点だったのですね。


さて、私が大好きな「Love of My Life」が誕生するきっかけにもなったというフレディの婚約者、メアリー・オースチンは、


マリークワントではなく、VIVAの店員さんでした。


フレディの恋人の話


調べてみましたら、

ビバは、60年代半ばからスウィンギング・ロンドンを代表するブランドとして数えられ、


マリー クワントがミニスカートをストリートの若者に普及させたブランドだとすると、


ビバは、より高い年齢層にミニスカートに普及させたブランドだと言えるそうです


『スウィンギング・ロンドン』

とは、1960年代におけるファッション、音楽、映画、建築などにおけるロンドンのストリートカルチャーで、代表的なものは、ミニスカートやサイケデリック・アートなど。


1955年に自分が着たい服をクリエイトしたロンドン初のブティック《BAZAAR》をチェルシーのキングス・ロードにオープンしたマリークワントは、


60年代初めには動きやすく少女らしさを演出するミニスカートが世界中で大ブームを巻き起こしました。

その偉業は数知れず…。


PVCを使ったカラフルな雨コートやベレー帽、ポロシャツは、専門業者とコラボされ、


通販カタログで、届きやすいものにし、


商標登録で、

デイジーの花を冠とする社名のファッションは、多くの人に届き、


時代の移り変わりと共に変化していったそうです。

ツイッギーも時代を象徴し、来日し、ミニスカートを日本に広めたモデルさんでした。

(小枝のように細いことからツイッギーと呼ばれたそうです)


ヴィダルサスーンとマリークワントの結びつきは今回初めて知りました。


今でも革命的で古さを感じず、モダンなヘアスタイルは、どんな服装でもお洒落に見えてしまうマジックさえ潜んでいるような気がします。


1963年にはクワントのために考案した「THE SHAPE =ザ・シェイプ」というヘアスタイルは後に「クラシック・ボブ」と称され、サスーンの美容人生にとっても重要なヘアデザインの一つだったそうです。


モードの先駆者という一面だけでなく女性起業家のパイオニアとしても世界に多大な影響を与えた人物の展覧会。


映画も同じくBunkamuraにて上映中です。


マリークワント展


映画 マリークワント

Bunkamura、ドゥマゴ前のツリー、

綺麗です。


神坂雪佳を知ったのは、芸大美術館だったと記憶しています。


筆のタッチ、色使い、雰囲気が好きでした。

まとめて観ることは出来ないけれど気になる存在でした。


その雪佳を冠した美術展、それは行くしかありません。


国内美術館では約20年ぶりの展覧会だそうです。

新橋、変わりましたね。

久しぶりに行きましたら『新橋停車場』

なる博物館?が出来ていました。


確か、新橋は、日本初の鉄道が開通した場所でしたよね。

その名残の場所があって、それはそれは凄い昔ですけど、ホワイトライオンを操るマジックをこのへんに建てられたテントで観たことがありました。


調べてみると、1872(明治5)年に現在の汐留が「新橋駅」で、「品川駅」も設置され、交通・物流の拠点となったそうです。


今はパナソニックをはじめ、ビルばかりです。


以前は遠く感じていた四季劇場も近く感じました。


汐留、ほぼ新橋ですね。

ですからわざわざ汐留駅を利用してこちらの美術館にアクセスする必要はないです。

神坂雪佳(かみさか・せっか)は、

明治・大正・昭和にかけて活躍した京都生まれの日本画家・図案家です。


『百々世草』より「春の田面」

1909〜10年(明治42年〜43年)

細見美術館

特に琳派に深く傾倒し、たらしこみなどの琳派独特の技法や構図を生かした作品を多数描いたことから、近代における琳派の継承者として位置づけられています。


『滑稽図案』1903年(明治36年)

芸艸堂蔵

たとえばこの作品。


2001年に日本人として初めてエルメスの雑誌の表紙を飾ったことで話題となった、

『八つ橋』ですが、


これは、根津美術館所蔵の琳派の代表的artist尾形光琳による日本の絵画史上でも特に有名な作品の1つである

『燕子花図屏風』のオマージュではないですか?

根津美術館と云えば、こちらの国宝です。

雪佳は、花の一部を白にして

『燕子花図屏風』も創作しています。

そしてこの仔犬。

これは俵屋宗達へのオマージュですね。

かの、風神雷神を描いたのが、俵屋宗達ですが、なんでしょう、このシンプルさ。


琳派の最大の特徴は、常識にとらわれず、描いた自然や人物、動物をデザイン化や簡略化をして、ビジュアル的な面白さを表現しているところです。


18世紀のことです。

革新的な試みだったと想像します。


江戸前期 『双犬図』

『金魚玉図』明治末期


夏の風物詩である金魚玉は、軒先などに吊るす丸いガラス容器のことですが、


正面からとらえた金魚が実にユニークです。


夏の涼味を感じさせる吊忍も絶妙な配置。

魅力的な作品です。


琳派の伝統を踏まえながら、大胆で新しい装飾美を追求した雪佳の作品は、

近年、その高いデザイン性が日本でも再評価され、「近代琳派」として注目されているそうです。


この展覧会では、琳派コレクションで知られる京都・細見美術館からの歴代琳派の優品を主とし、“近代琳派”の名にふさわしい神坂雪佳の代表作まで、約80点を紹介されています。


雪佳自身が琳派のコレクターであったためか?江戸時代に活躍した琳派の作品を観ることが出来ます。


中でも養源院の杉戸で有名な、俵屋宗達の『白象図』をだぶらせる渡辺始興の『白象図屏風』、中村芳中の『枝豆露草図屏風』に出逢えたことは、発見でした。


改めて琳派に関心を注ぐ作品展でした。


また、版元の芸艸堂もとても気になりました。


パナソニック汐留美術館



1992年、世田谷に開館した静嘉堂文庫美術館。

交通の勉が悪く、行きづらいんですよね。


それが、三菱財閥、美術館の礎を築いた

2代岩崎彌之助の願いが叶う形で、2022年10月、丸の内に移転されました。


「静嘉堂@丸の内」が入るのは、1934 (昭和9)年に竣工した重要文化財である明治生命館。


まずはこの建物を見学いたしましたが、


それというのも、事前予約せずに気紛れに向かったからであります。


質の高い美術品ばかりですし、例のアレを含めて鑑賞されるシニア層が多く訪れていたのでしょう。


定員も制限しています故、ネット予約はして行った方が良さそうです。

三菱財閥の創設者・岩崎弥太郎の弟で2代目総帥だった彌之助は、西欧化に偏重していった明治期に、自らが愛していた東洋固有の文化財の散亡を怖れ、1887年頃から美術品の収集を開始し、その活動は4代小弥太に引き継がれてさらに拡大されました。


1872年(明治5年)にアメリカに留学した岩崎彌之助は、アメリカの大富豪カーネギーの思想に強く影響を受けているといいます。


カーネギーは、

「富めるものは、使命として、富を人々の利益に還元させることにある」

と、主張していました。


その思想が美術の蒐集品を公開、展示する美術館建設の構想へとなったと考えられています。


「日本にも近代国家としてロンドンのようなオフィス街が必要だ」と考えて丸の内の開発し、


そのオフィス街のなかに静嘉堂文庫の美術館を作りたいと考え、ジョサイア・コンドルに設計図まで画かせていたといいます。

さて、美術館へ入場します。


中央部の広い「ホワイエ」は、大理石造りで、贅沢な雰囲気です。


高い天井からはガラスを通して自然光が差し込みます。


「ホワイエ」を取り囲むように設られた4つの展示室になっており、右のホテルのような入口から展示を見ていきます。


まずは、信長、秀吉、家康が所有していたという唐物茄子茶入に驚かせられます。


大阪夏の陣で罹災した『付藻(つくも)茄子』『松本(紹鷗)茄子』


大坂城址から徳川家康の命をうけた藤重藤元・藤巖父子により探し出され、漆で繕われています。


精緻な漆繕いの褒美として、家康から藤元に下賜されたそうですが、


釉と見られる景色など、表面を覆う部分は、ほぼすべて漆による修復だといいます。


CT画像がありますが、バラバラです。


素晴らしい塗師の仕事にも感動ですが、


弥太郎氏が創立した三菱の前身が、「九十九商会」であったということで、入手したのではないかというも、エピソードも面白いです。

国宝 俵屋宗達『源氏物語関屋澪標図屏風』


こちらは、醍醐寺に寄進した返礼として、彌之助氏が自ら選んだ品だそうです。

静嘉堂といえば、コレ。

アレというのは、コレのことです。


曜変天目は、唐物茶碗のうち、もっとも貴重で高価な茶碗として、分類格付けされています。


今日、世界中で現存する曜変天目(完形品)は、日本にある三碗のみ。


京都・大徳寺龍光院、

大阪・藤田美術館所蔵の各一碗と

そして、

静嘉堂文庫美術館所蔵の曜変天目で、


すべてが国宝に指定されています。


茶の湯展や国宝展で拝見したことがありますが、静嘉堂がダントツに美しいです。


「星」または「輝く」を意味する「曜」の字が当てられていますが、

本当に茶碗の中の宇宙を感じます。


福建省建窯の焼成品で、偶然の所産と見られているというのだから驚きです。


「これだけを鑑賞するだけでいい」

と、思わせる魅力があります。


静嘉堂@丸の内


先日行った練馬区立美術館で、福田美蘭さんがとても気になりました。

調べているうちに、この千葉市美術館の存在を知りました。


残念ながら、福田美蘭さんの展覧会は昨年の開催で観ることが叶いませんでしたが、


以前、SOMPO美術館の川瀬巴水展を拝観した際に、新版画というジャンルがあったことを知りました。


今回の展覧会で、もっと深くその時代と作品を知ることが出来そうだったので、行ってみることにしました。


しかし、千葉は、遠い(´-ω-`)

まったく知らず、一生行くこともなかったかもしれなかった美術館。


美術館、東京だけではないと、

実感しましたね〜。


新たな発見で気分盛り上がりました。


しかも、こちら、建物が面白い!

1927年(昭和2年)に建てられたネオ・ルネサンス様式の旧川崎銀行千葉支店の建物は、千葉空襲で焼け残った歴史的建造物で、


その跡地に総合支所と美術館を併設する構想が浮上したのだそうです。


保存を求める市民らの要望もあり、


その旧川崎銀行千葉支店を覆うようにする「さや堂」方式を用いて


保存・新設という形で本日訪れた千葉市美術館は建設されたそうです。


『さや堂』と、いうものに出会うのもはじめてでしたし、千葉市美術館の予備知識もなかったものですから、


まず外観の古代ギリシャ風の柱に驚きました。


でかい、ふとい。

そして内部がこれです。


「な、なぁに、これは…」

実に贅沢なホールです。


いやぁ〜、これは絶対保存です。

ホールということですが、ここで室内楽とか、いいでしょうね。


自由に休憩してよろしい様子。


カフェがありましたが、ここでいただけたらいいのにな、と、思いました。


三菱一号館美術館みたいに…。

さて、企画展。


まずは、新版画とはなんぞや、ですよね。


日本の版画と言えば、北斎、写楽、歌麿呂らの浮世絵と、思ってしまいますが、


大正初年から昭和のはじめにかけて興隆したのが『新版画』だそうです。


版元 渡邊庄三郎(1885-1962)は、

伝統的な彫りや摺りの技術に、同時代の画家による清新な表現を合わせようとしたチャレンジャーだったようです。


19世紀後半から広がった日本趣味は浮世絵であったと言われていますが、西洋美術にはない色彩や構図は人々を魅了し、またこのようなクオリティの高い作品が大衆に渡っていることが驚きをもって伝えられ、『芸術の国 日本』ということになっていったそうです。


作品はすべて千葉市美術館所蔵のものだそうですので、この蔵出しは貴重ですね。


大正期から隆盛をきわめた版画を思い切り堪能出来ます。


面白かったのは、版元 渡邉庄三郎の試みにすぐに反応したのは外国人版画家。

大正モダンな画風やサインは日本人にはない感覚だと、心惹かれました。


また、日本人画家として有名な、伊東深水の作品も多く、長襦袢の赤が効果的な艶っぽい作品も版画ならではだと感じました。


新版画に意欲的で代表的な作品を残した川瀬巴水の作品、また日本の景勝地に出逢えました。


そして、その作品展に行った時に知った、

スティーブ・ジョブズがMacintoshのデモ画面にしたという樋口五葉の作品にも再会出来ました。


そんなことで、またこのジャンルに興味が高まりました。


この新版画による試みは多くの画家に刺激を与え、版元も増えたといいます。

また異国のアーチストも多くいたようで、終盤はそれらの作品が展示されています。


日本のアート、まだこれから多くのファンが増えそうです。


千葉市美術館






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